ウォーリー木下THE ROB CARLTON「STING OPERATION」

タイトルからもわかるとおり、いわゆるコンゲームの体裁をとってはいるが、騙す側も騙される側もなにひとつうまくいかない。うまくいかないことでサスペンスが生まれるがこれをサスペンスと呼んで良いのか、サスペンスという言葉に失礼なんじゃないか、と思ってしまうくらいとても間抜けな状況が続く。ひとつひとつここで挙げてみても良いが(たとえばうまい棒のくだりとか、誤魔化すために寝るとか)、たぶん文章だけでこの面白さを伝えるのは難しいし、逆に面白くないと思われてしまうかもしれないのでやめておく。
なんだろう、これ。
まず、演技がヘンなのだ。登場人物の名前は全員横文字で、彼らは英語を喋っているという設定だ(もちろん日本語で発話される)。だからか彼らの演技は過剰だ。手振り身振りが多く、台詞回しも大仰で、外国映画のアフレコ風。だからといって安っぽいものを想像して欲しくない。彼らは作品ごとに毎回そういう演技のベースを作る変える。戯曲が先なのか、演技スタイルを決めるのが先なのかはわからないが、まずこういう演技スタイルを徹底的にやると決めて、その上で面白い設定やドラマを積み上げていく。だからどんなにバカバカしい状況が生まれても、大前提の土台がしっかりしているのでなんでも受け入れてしまう。観客に疑問を持たせない。言い方を変えれば、疑問が”多すぎる”ことでもはや本当の疑問が何かわからなくなる。これはすごいことだ。
もしくはこうかもしれない。大前提のバカバカしい土台が、いつの間にか背景に溶け込んで、一切気にならなくなる。俳優たちをそういう人たちだと(日本人ではなくて外国人だと)信じ込んでしまう。でも脳みそはそのことに抵抗し続けるから、ずっと「おかしい」のだ。なにをやってもおかしいのだ。

これってとても演劇的だと思いませんか? 演劇的の定義をここで突き詰めると長くなるので、簡潔に僕の考えを言えば「今目の前で起こっていることと起こっていないことの摩擦係数の大きさ」。
たとえば徹底的なリアリズムになればなるほど、その俳優たちは実は台詞を喋っている、という矛盾の摩擦が強くなったり、逆にミュージカルのように突然歌い出す登場人物たちの摩擦。信じさせられていること(フィクション)と実際のこと(ノンフィクション)の争い。それが特にライブだからこそ起こる摩擦効果を演劇的と呼んでみることにする。その場合、ロブのやってることは何が本当かわからなくなる。シットコムとしての物語の見せ方以前に、そこがとてもユニークで面白い。
また同じく演劇的という意味で言えば、ふたつの部屋を同時に見せるという仕掛けも面白い。その仕掛けが全体のグルーヴを生んでいる。

そして、特筆すべきは最後のオチだ。まあ書いちゃうけど。「普通にいい人だった」。僕はこんな物語の終わり方見たことない。
実は悪い人だった。とか、いい人がいい人として善行の果てに○○とか。そういうのは知ってるけど。
「罠にかけようとしていた悪い人が、いい人だった」。
脱力だ。つまりは、すべてが茶番だったのだ。
しかしその茶番こそが大事で、茶番へと人を駆り出す「何か」を描いているのがロブなのだと思う。その「何か」は、決して人ごとではない。僕らが日常的に犯されている「何か」なのだ。
仕事や趣味や恋愛や、その他様々な「何か」。他人から見たらどうでもいいようなこと。どうでもいいことの果てに、涙とか怒りとか、そういうものが待っている。
そしてもちろんロブカールトンの「何か」は確実に熟成していて、僕らはその発展と戦いを今後は楽しめばいいわけなのだ。

プロフィール

ウォーリー木下

演出家。劇団sunday代表。
戯曲家・演出家として、外部公演も数多く手がけ、特に役者の身体性を重視した演出に定評がある。他にもノンバーバルパフォーマンス集団THE ORIGINAL TEMPO のプロデュース・演出や、様々な演劇祭でのフェスティバルディレクターを務める。2018年4月に神戸アートビレッジセンターの舞台芸術プログラムディレクターに就任。