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あさっての為の絵画としての表現
新しい絵画としての表現ーーそれは日本の伝統、思想(+α)をふくんでいる「プラモデル」のテクニックで絵画を制作する。
「プラ・テク」と言うものは日本の職人のもつ技術から画家・デザイナーの技術まで「表現」するためには何でも使う。プラスティック素材に筆で塗装するときは漆塗のテクニックを、ウェザリング(汚れを表現する方法)にはパステルや、油絵の具などがあり、その多彩
なテクニックには溶接の基礎的なテクニック、日本画のテクニック。いうなれば美術というものの表現行為のほとんどが「プラ・テク」に内包されているのだ。
この「プラ・テク」をささえているのは、「プラモデラー」と呼ばれる人々の狂気にも似た造形意欲にある。
ここで「プラモデラー」といわれる人々は日本人特有の体質である閉鎖性を体現していることに気付くのだ。クローズド・サークルである。
彼等はこだわらないーー自分の作品を発表することに執着しないのだ。(ある限られた場所以外では)
ここまで述べたのだが、私は別に「閉鎖性」を打倒したいのではないのだ。現実は少しづつ変化して行くのだから。
要するにこの「日本」というものが作り出したオタッキーな「プラモデラー」の「プラ・テク」を用いて新たな絵画の可能性を見い出したいと思っているのだ。
現在、私たちはものすごい閉塞感に覆われている。それは大きくいえば未来への諦めから来ているのではないのだろうか?
「明日」を渇望するのではもうダメなのかもしれない、ではどうすればいいのだろうか。
全てのシステムにある種の終末感を覚えている。そう、現在の「絵画」というシステムは滅びつつあるのだ。
だからといって私はいわゆる「絵画の明日」を望んでいるのではない、それではもうダメなのだ。
未来に希望を持つのはもうやめたほうがいいのだ。では一体どうすればいいのか? 私の場合、その希望を、切望を「明日」にではなく「あさって」に託そうと思うのだ。
それはとんでもなく見当違いなのかもしれない、が可能性の一つの提示としてはとんでもない力を期待できるのではないのだろうか。
だが私に残された希望はそこにしかないのかもしれない。この見当違いな戦いこそが私の望んでいる全てなのかもしれない。
(※この略歴、文章はアートアニュアル'97パンフレットに記載されたものです)
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