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「さすらいの器」
世の中を、さまよい続けるものというのは数多く存在し、目に映るもの以外のものでもふらふらと、さまよっているものは多いと思います。そのさまよっているものの中には、出会いがあり安住の地にたどり着き一生をその場で終える場合もあれば、自然消滅するもの、自滅するもの、事故に合いその存在を失ってしまうものなど様々である。それはさまよわなくても同じこと、存在するものすべての宿命である。しかしそれは、この世から消えるわけではなく、次の形に変化し存在し続ける。そこに行き着くまでには、さまよいながらも出会いがあり、関係を作ることになる。
私は昨年、一つの器と出会った。場所は京都の南に位
置する古義真言宗東寺派総本山五重塔で知られる東寺である。そこで毎月21日に開かれている骨董市で、たしか空気がすみきった日あたりの良い冬の日の午後だった。骨董市に行く時、私は何かほしいなどとは考えずに、ただぶらりと、私もまたさまよいに行っているだけなのだ。さまよいながらも私は、一つの器に目が止まった。店先にゴロリと無造作に転がっており、本当は白地にもかかわらず長年のホコリとススの様な汚れが付いたちょうどにぎりこぶし位
の大きさの器であった。器を手に取り表面を回しながら絵柄を見ると、そこには、八本足の蛸、色とりどりの貝、そして怪しげな建物が画かれていた。それは多分竜宮城だと私は思い、何度も器を回し、その絵柄を楽しんだ。
次の瞬間私は、家でその器で酒を飲んでいた。酔いに身を任せながらその絵柄の中に身を置き竜宮城へ誘われているかの様に器の中をさまよい続けた。その器はいつの時代に生まれたのだろう。そしてどの様にさまよい続けてきたのだろう。さまよい続けて、今私の手の中にある。今度は私がその器の中をさまようことになった。私が存在する限りこの器は、さまようことはないだろう。
(※この文章はアートアニュアル'96パンフレットに記載されたものです)
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